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愛ゆえに愛なのだという話

愛は愛ゆえに愛だ。愛ゆえに愛でないのに愛のようなものがあったとして、それは決して愛ではない。完全な愛しかなく、ある愛の形は全ての愛の形だ。我々の愛は、そういう風にしかありえない。僕だって、そんなのひどい話だとは思う。

明るく前向きに考えれば、僕は世界中の人間と愛し合うことができる。可能性がある。僕はキリストではないけれど、確かにそれは可能なのだ。理論的にも、実際的にも。想像してみればいい。世界中の人間と愛し合うってのはどんな気持ちだろう。きっとうんざりすると思う。

僕は彼女を愛している。僕が彼女のことを愛することができるのなら、彼女は僕のことを愛することができるだろう。そして鏡になる。僕らは鏡になるのだ。



「僕は彼女を殺したいくらいに愛していた。だから僕は彼女を殺した。それが何か間違っているだろうか。間違っているのなら、遠慮せずに言ってほしい、今すぐにね。僕は確かに彼女を愛していた。そして、もちろん、今でも愛している」

「愛しているのに殺すって、どう考えてもおかしいわ。だって、彼女はそれを望んでいなかった。そしてあなたもそれをわかっていた」

「わかっていた。わかっていたよ。それでも僕は、愛しているからこそ、彼女を殺す他に仕方がなかったんじゃないか」

彼は彼女にキスをした。

「それはあなたのエゴよ」

彼女は言った。お酒を飲んで、二人とも気分が高揚していた。
彼は、テーブルの上で彼女の手を握る。

「そうかもしれない。しかしだからと言って、僕たちが愛し合っていなかったというわけでもないだろう」

「屁理屈はよしてよ。とにかく、たとえそれが愛だったとしても…認めるわけじゃないのよ、決して。でも、たとえ愛だったとしても、私はそんなのお断りよ」

彼はとても優しく彼女の髪を撫でる。それだけで彼女はうっとりする。彼は再び、今度は先ほどよりも情熱的に、彼女にキスをした。

「僕だってお断りだ。殺されるのなんて。僕は昔、前の妻に殺されそうになったことがあるんだ。つまらない夫婦喧嘩が原因でね。妻が包丁を隠し持っていたのを見つけた時は、本当にゾッとしたよ。もし気づかなかったら、僕は殺されていたかもしれない」

「殺されていればよかったのよ」

「どうして?」

「どうしてって、訊くのね」彼女はグラスの酒を一気に飲み干した。「私があなたを愛しているからよ」




例えばこんな話がある。
夕子の白い背中を見て、僕は泣きたい気持ちになった。夕子の背中はとても弱くて、今にもこの小さな部屋の真ん中に、消え入ってしまいそうだったからだ。僕は消えてほしくないと強く思った。どうか、消えないでくれ。夕子。
夕子はそんな僕の気持ちに気づいてか、ゆっくりと振り返って、優しく笑った。

「そんな顔、しないで」

僕は夕子に、何と言っていいのかわからなかった。どんな言葉を彼女にかけたら、彼女は消えないでいてくれるだろう。どんな風に生きたら、彼女と離れ離れにならないでいられるだろう。僕は黙って夕子を見ていた。
時々、夕子の輪郭がなくなることがある。夕子と、夕子の周りが溶け合っていきそうになることがある。それは美しい光景ではあるけれど、そのまま放っておくのはあまりにも危険だから、その度に僕は夕子のことを抱きしめた。すると今度は、僕と夕子が溶け合う。夕子の見る全てを僕が見る。夕子の感じる全てを僕が感じる。僕と夕子の、全部がつながっていくようになる。そしてその分だけ、周りから切り離されていく。この繰り返しによって、僕たちはもうほとんど後戻りできないところまできていた。これが最後のチャンスだ。

「そんな顔、しないで」

周りが夕子をとらえる。周りがどんどん夕子を蝕んでいく。夕子は溶け出す。裸になった夕子は綺麗で、この小さな部屋の中でとても繊細に見えた。僕は我慢できずに、また夕子を抱きしめようと思ったけれど、どうしても体が動かなかった。僕と夕子とは違う人間なのだということを、僕は知らなかった。そういう風にして夕子は消えた。




それに、こんな話もある。
私の話。私たちが愛し合えたらよかったのに、と私は思う。私たちが愛し合えたら、こんなことにはならなかったのに。
荷物をまとめながら、夫は私に悪態をついた。このアバズレ、信じた俺が馬鹿だった、とかそういうこと。たしかに浮気をしたのは私の方だし、それについて、何か言い訳をしようとも思っていない。だけど、夫にも問題がなかったわけじゃない。彼は私がまだ十代の少女だった頃から十年間も、私をずっと独り占めにしてきた。この十年間が私にとってどれほど重要なものだったのか、夫は知らないだろうし、知ろうともしないだろう。
最初のころ―つまり、私がまだ少女だった頃は、私は夫のことを心の底から愛していた。そして、こんな人と一緒になれるなんて私は幸せ者だな、と確かに思っていた。でもそれは所詮少女が信じた幻想でしかなくて、現実がこんな風だなんて、夢にも思っていなかったのだ。この十年で、私は自分をすっかり台無しにしてしまった。私はもう美しくなくなってしまったし、何かを強く信じるということもできなくなってしまった。もちろん全てが夫のせいだと言うつもりはないけれど、夫や、その他の色々が、私を駄目にしてしまったのだ。だから、こういう結果になるのも、仕方がないと言えば仕方がない。これが現実、これが私たちだ。
夫が、荷物と犬を連れて、今まさに玄関から出ていこうとする。私は、彼の荷物がとても少ないのに驚く。あの荷物と犬が、彼がこの十年間で手に入れた全てなのだろうか。私たちが愛し合えたら、こんなことにはならなかったのにな。




「私があなたを愛しているからよ」

彼は真っ直ぐに彼女の目を見る。彼女の瞳に、自分が写っているのがわかる。彼が動けば、彼女の瞳の中の自分も動いた。

「僕も愛しているよ」

「どうして?」

「わからない。でも、そんな気がする」




全部、ひどい話だとは思う。それに、うんざりする。しかし、こういう話があるというだけのことで、それで愛がどうこうというわけでもないのだ。

at 03:48, ジョバンニ, ジョバンニ

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ローリングストーン

眠れないので、こっそり、書くね。


冬になりつつある。もう、冬だぜ、という感じさえある。大学生になって、最後の冬で、ということは、すなわち、僕はもうすぐ大学を卒業するのだけれど、結局、最後までよろしくなかった。一体何が。不図考えてみる。本当は、もっと広く責任のある人間になり、バイタリティに溢れ、諸々が良い方向に進み、やったぜ、ということになりたかった、ということであろう。
何故かくも苔の生えた路傍の石の如きつまらない男になってしまったのかと言うと、ずばり、僕が誠実でないからである。僕自身が誠実でなく、軽薄だからである。と僕は分析する。
それならば、誠実を心がけ、重厚なオーラを纏う人間になりさえすればよいのだが、そうもいかない。僕が誠実に振る舞おうとするほどかえって不誠実になり、重厚に生きようとするとすぐにへたってしまうのだ。これだからいけない。
誠実な男というものは自分の行動に責任を持つ。例えばクリスマスには予定を空け前もっておしゃれな店を予約、その上で恋人とデートをし、そればかりか、気の利いたプレゼントさえ送るという。実に馬鹿らしいので、嘘に思えるかもしれないが、これは、正味、本当の話である。現に僕の周りの人々はこんなことを平然とやってのける。アッパレ、と思う。僕にはこんな真似、到底できっこない。
僕は大学生になって自分のこういった所に気づき、度々改善を試みたが、一向によくならない、どころか益々苔が生えてゆく次第なのだ。どうしようもない。よろしくない。
しかし立つ瀬がないわけでもなく、それなりに生活している。他人に迷惑をかけ、不誠実の限りを尽くしながらも、僕はなんとかここまでやってこれたのだ。アッパレ、と思う。滑稽である。

at 04:13, ジョバンニ, 日常の充満

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そう言って彼は煙草に火をつけた。

煙草が大幅に値上がりして、これを機に禁煙という人が多いと思う。体に悪いし、肩身狭いし。

かく言う僕も、値上がり前、せっかくなので禁煙に挑戦してみた。その切っ掛けは確かに値上がりなのだが、僕としては、高くなろうが吸い続けるつもりだった。そして、そのために買いだめをした。今まではカートンで煙草を買うということはしておらず、煙草が切れるとその都度コンビニやらで買っていた。そのことに、特に理由はない。別段煩わしいとも感じていなかった。コンビニなんて、どこにだってあるしね。そういう性分なのだと思う。

しかし、いざ、カートンで買いだめをすると、それが実に馬鹿らしいことのように思えた。買いだめをすること自体を浅ましい根性だとか言うつもりはないのだけれど(煙草を吸うのならば、買いだめはするべきなのだ。合理的に。)、何故だか不意に、馬鹿らしくなったのだ。合理的考えから離れたところで、そういった煙草による束縛からくる打算が、滑稽だと思ったのかもしれない。束縛されるのは嫌なのに、実際に僕は束縛されていて、カートンで買うまでそのことに気づいていなかったことが、まるで阿呆だと思ったのかもしれない。結局、僕にとって煙草を吸うということが、他律的な自由になっていたのだ。とにかくそれで、試しに禁煙してみようかしらん、と考えるに至った。

禁煙してわかったのは、僕は自分で思っているよりも依存していたということだ。実際、つらかった。ことあるごとに、すごく煙草を吸いたいと思った。煙草を思い描き、煙の感覚を思い出し、煙草を吸う自分をイメージした。僕はイメージの中で、何十本も煙草を吸った。
そして、これは恋のようだと思った。煙草は最早、別ち難い恋人のような存在だった。別れは実につらいものなのだな、本来は。などと感傷的な気分になりながら、今までの別れを思い返しながら、恋というのは依存と近いのだろうか、それは果たして愛なのだろうか、肉体が伴わなければ純粋なのだろうか、いや、そういうわけでもないよね……そんなことは本当に煙草とは何の関係もないが僕はそうやって気を紛らわした。ガムを噛んだ。

僕は、煙草を恋のメタファーとして捉えるほどに倒錯していた。無論、煙草と恋愛はあまり関係がない。ここで、煙草の意味を、考えよう。煙草は、習慣なのだろうか。儀式的行為なのだろうか。


最近は減ったかもしれないが、煙草は、とても頻繁に小説に登場する。古今東西。煙草と文学は、近しいものなのではないだろうか。例えば、フラニーは恋人に注意されるほどレストランで煙草を吸いまくり挙げ句ぶっ倒れるし、村上春樹の小説では、主人公が阿呆のように吸った煙草の本数を数えている。中原中也の愛煙する煙草は、ゴールデンバットだ。芥川龍之介や、太宰治もそうだったと思う。太宰治の小説では、煙草がうまかったので自殺をやめたりするし、井伏鱒二はゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。はたまたハードボイルド小説なんか、主人公が煙草を吸わないものを僕は知らない。主人公が煙草を吸わないハードボイルド小説があるなら、それは碌なものじゃない。とまぁ、枚挙に暇がない。これがガムならどうだ。

「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくりガムを噛みながら、放屁なされた」

馬鹿みたいじゃないか。井伏鱒二ともあろう作家が、馬鹿みたいじゃないか。



マッチ擦る つかの間海に 霧深し 身捨つる程の 祖国はありや

と寺山修治も歌っている。煙草がなければ、こんな詩もなかった。

煙草は情緒だ。その紫煙はメタファーとなり、ゆっくりとくゆらせ遠くを見れば、どんな男もクリント・イーストウッドになる。
それなのに、体に悪いからと言って、値上げするのはいけない。今に、あと五分後に、死にゆく男がいたとして、最後に何がしたい?と聞けば、彼はきっと、煙草を一本おくれ、と言うだろう。そういう性質のものなだ。煙草を吸うのは、儀式的行為ではなく、情緒的行為なのだ。そして、健康に悪いのだ。



僕は力尽きた。馬鹿らしくなった。一週間、禁煙し、また吸い始めて、今に至る。買いだめした残りわずかな分を吸い尽くしたら、また禁煙を始めようと思う。その時は、生暖かく見守ってほしい。

at 03:03, ジョバンニ, 随創

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世界の終わりとけいおん!!!

けいおん!について書く。偏見で。いつもの通り、僕は大真面目である。


けいおん!ってすごい人気だ。曲がオリコンで1、2位を独占するのが当たり前みたいになっているし、別にオタクじゃなくても、知らない人はいないってくらいに。けいおん!がかくも人気を博しているその理由は、ごく単純に、キャラが可愛くて、少し笑えて、アニメとしてクオリティーが高いからだろう。これは自明だ。何故そこまでやる必要があるのかと言うほどに、ゴリ押しのクオリティーだ。OPやEDを含め、アニメ全体の細部に至って、ゴリ押しのクオリティーだ。
ただ、僕はけいおん!を観ているとすごくイライラすることがあって、それはきっとカルシウムが足りないせいだろうと思うのだ。






けいおん!で描かれているのは、女子高生たちの、普通の日常である。ほのぼのとした日常の中で、普通の女の子たちが、普通の青春を謳歌している。それだけだ。
というのは、大嘘だ。騙されちゃいけない。

重要なのは、本当は、そんな普通なんて、日常には存在しないということだ。
けいおん!で描かれているのは日常ではない。いや確かに日常ではあるのだけれども、それは現実世界における日常とは全く異質のものである。って、アニメ(しかも萌えアニメ)だから当たり前なのだが、リアリティーのアリ・ナシで言うと、ナシ、なのだ。けいおん!はゴリ押しでディテールを詰めることによって、そのギャップを覆い隠そうとしている。


では、けいおん!の舞台で繰り広げられているアレは日常でなかったら何よ、と言うと、アレは、世界の滅亡だ。(どーん!)


まず最初に、けいおん!はユートピアだ。
現実の女子高生は、彼氏がいたり、オタクを軽蔑していたり、自傷癖があったり、どうしようもないブスだったり、どうしようもないクズだったり、する。それくらいだったらまだいいけど、中には援助交際する女の子だって、ドラッグやってる女の子だって、いるはずだ。
これだから三次元の女はだめなんだ。したがって、ユートピアが、けいおん!というわけだ。すごく単純である。僕は何だか偉そうに言っているが、こんなの、はっきり言って、視てる人はみんなわかっている。だいたいからして、萌えアニメなんていうのは理想化・偶像化・記号化されたものであって然るべきで、そんなことは本来、言うのも野暮なのだ。

しかし、ただ単にオタクにとってのユートピアというだけではない。けいおん!は現代人のユートピアでさえある。そしてそれと同時に、ディストピアでもある。

ふわふわ生きる女の子たちの放課後には、物語がない。物語がないことによって、日常性が滲み出てくる。日常性が滲み出てくることによって、リアリティーが生じる。リアリティーが生じることによって、もはや単なる記号でしかない「萌え」に、深みを与える。という図式がある。(そして、先ほど述べたようにその日常性というものは理想化された日常であって、したがってそこにはある種歪んだ形でしかリアリティーが生まれないのである。)

物語がないということがどういう事かというと、「けいおん部の面々が、放課後部室に集まってお茶を飲む」、けいおん!自体が基本的にそれだけで完結するということだ。文化祭があったり、修学旅行があったり、まぁ最終的には卒業したりするけれど、そこに一貫した、起伏に富んだ物語性というものはほとんどない(これは国民的日常アニメであるサザエさんやクレヨンしんちゃんも一緒)。大きな抑揚のない放課後には、努力や向上心といったもの、あるいは不条理や悲しみが存在しない。努力や向上心の放棄、不条理の消失というのは非常に楽である。平安である。だからオタクでなくたって、そういった意味のない風景(その中で幸せそうな人々)を何も考えずに眺めていると、心地良く感じるのだ。

しかし、現実の日常には、必ず物語がある。それぞれの物語はどうやったって、度外視できない。思うに、(もう乱暴にサザエさんなんかもひっくるめて)日常アニメは、ブルセラ学者風に言うところの「終わりなき日常」からの、逃避である。


だいたい4コマ漫画が原作の萌えアニメにこんなこと言ったってしょうがないのだが、本来わたしたちが生きる日常には出口がなく、それは万人にとって、非常につらいものである。のに、けいおん!のあの体たらくは何なんだ、うらやましいな。(ということが、僕はいちばん言いたかった。)


不条理な日常はつらい。だからこそ、「所詮そんなもんだ」と不条理や理不尽さ受容するナードなマッチョさが必要なのだ。絶対に目を逸らすなとは言わないが、受け入れろと言いたいのだ。僕は、ユートピアが嫌いだ。ユートピアはディストピアだ。しかも、それは決して存在しない。



けいおん!があまりにも人気なので、意地悪な気持ちになって、書いてみた。あずにゃんペロペロ。

at 00:43, ジョバンニ, 随創

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馬と人間



馬は良い動物だ。良い動物と悪い動物があるとすれば、馬は断然良い動物だ。従順で大人しく、走れば速く、草しか食べないので他の動物を殺傷するということをしない。馬は良い動物なのだ。

それに対して、人間は悪い動物だ。粗暴で喧しく、走れば遅いし、無闇矢鱈に他の動物を殺傷している。このような人間はまさに鬼と何ら変わるところがないのであって、そんな人間が支配するこの世界は、もはや地獄そのものである。まぁ、たまに僕のように良い人間もいるが、僕みたいな人間は実に稀有な存在であって、百万人に一人くらいの確率でしかいない。マジで。したがって、マイノリティたる良い人間は、多勢の悪い人間どもに罵られ、蔑まれ、殴られ、小便をかけられ、最終的に大便まみれになる。(あなたがもし街で大便まみれの人を見かけたら、その人は良い人間だ)でも僕はくさいのは嫌なので、普段は鬼のふりをしている。



先日、高原にて馬に乗った。という経験をした。
馬に乗る、というイメージがなかなかわかず、と言うかどうしても侍や騎士などの前時代の印象から離れられずにいたが、高原への同行人の方々が馬に乗りたいというので、せっかくだから、ということで僕も乗馬することにした。侍になれるのだろうか、と思っていた。

僕が乗らせてもらったのは美しい白馬で、僕は、その白馬の機能美的な筋肉のつき方や、緩やかな毛並の鬣(たてがみ)や、蹄の無機質さに、たいそう感激した。馬になりたい、とさえ思った。
実際に跨がると、バイクやなんかに跨がるのと全然違って、馬の、生き物の感じが伝わってきた。生き物の感じというのは、とても儚い感じで、それでいて奥底から力強い感じである。
馬は歩き、道草を食べ、大便をし、ゆっくりと走った。楽しかった。


乗ってはじめてわかった。馬は良い動物だ。それに比べ、人間はかくも醜い。この落差に愕然としながらも、僕は悪い人間が良い馬を操るという事実を受け入れるしかなかった。支配者が悪者、エゴの塊である、というのは世の常なのだが、僕としては、このような不均衡、不平等は到底許せない。何ゆえこんなことに、と僕は義憤の涙を流した。そして、馬を解放しようと思った。全馬のための孤独な闘い、ひとりぼっちの大いなる革命だ。本当の侍なら、きっとそうするだろうと思ったのだ。


しかしながら、馬はそこらじゅうに排泄物を垂れ流すので、やっぱり馬を解放するのはやめにした。僕はくさいのは嫌なのだ。だいいち、馬小屋の臭いにもなれないし、あんな臭いが街に充満したらたまったもんじゃない。ふざけるなと言いたい。


その日、乗馬クラブの人の赤ちゃんを抱いたら、大便まみれだった。高原の風は爽やかで、なんだか胸騒ぎがした。

at 03:13, ジョバンニ, 日常の充満

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パトリオット煎餅

現役パンクスである私にだって、愛国心というものはある。時折アナーキーな言動をしているかもしれないが、それは、言わばポーズ、建前、ある種の道化、であって、心根では、真面目にわが国の繁栄を願っている。だから、普段「国境なんてなくしちまえよ」だとか「フリーセックス万歳」だとか「ホテルカリフォルニア」だとか狂人のように呟いているのは、全部真っ赤な嘘なのだ。正直に言えば、私は、そういうのが格好いいと思っているのだ。やめられないのだ。


ところでしかし、近頃のわが国は、どうもおかしい。私には、日本人が、日本人としての心意気や、誠実さを失っているように思えてならないのだ。私はこの国を、非常に憂いている。

例えば、みんながみんな、マクドナルドでハンバーガーを食べている。のみならず、コカ・コーラを飲んでいる。そうかと思うとスターバックスでキャラメルフラペチーノを飲み、韓流スターのCDを買い漁り、挙げ句の果てにはディスコへ行って乱痴気騒ぎだ。
はっきり言って、どうかしている。何なんだ。フラペチーノって、何なんだ。洒落くさい。氷結珈琲飲料ではいけないのか。

日本という国そのものがもう既におかしくなっている。戦後、敗戦により屈折してしまったわが国は、ミサイルが飛んでこようが、領海を侵されようが、島を不法占拠されようが、屈折しているので、へらへら笑っているだけなのだ。何だか気味が悪い人の如しである。そして人民も、すっかりそれに慣れてしまい、現在では先に述べたような堕落ぶりである。私は思うのだ。今こそ日本人が変わる時ではないかと。立ち上がる時ではないかと。

そこで私は、兎に角、実践が第一だと考え、先ずは鯨を食べることにした。頭が良いから鯨を食うなと言う阿呆共がいるが、この主張は明らかに間抜けだ。頭が悪い生き物なら幾ら殺しても構わないというのか。牛や豚はどうなるのだ。不平等極まりないではないか。笑止。


鯨は、堅かった。元来、私は顎が強くない。顎が小さいので、顎関節症なのだ。

人それぞれ好みとかあるし、それはまぁ仕方ない。それで柔らかい肉が食べたくなって、次の日、私はステーキを食べた。高級だったので、涙が溢れそうなほど美味しかった。


そして時は変わって今日、私は祖母宅に赴いた。祖母宅は、古い日本家屋である。あぁ古き良き日本がここにある。そこで私は人知れず憂国の涙に暮れていた。
祖母宅には、大量の煎餅があった。うんうんやっぱこれだよね日本のおやつといえば。と言って、私は煎餅を頬張った。煎餅も、堅かった。そもそも煎餅はあんまり好きじゃない。堅い食べ物とか、あんまり慣れてない。お菓子なら、チョコレートケーキが好きだ。



私は、何やら巨大な陰謀が渦巻いている気がしてならない。フリーセックス万歳。

at 04:03, ジョバンニ, 随創

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フランスのタバコ

優しさって馬鹿だよね。



論文の合間に、こうやって気を紛らすのを許して。誰にだって、息抜きは必要である。息を抜きすぎて、心に穴が空く。

論文を書いていて不図思う。これが、僕の、学生生活における最後の論文になるということを。振り返れば長いようで短い学生生活、僕はいくつもレポートやら論文やらを書いてきた。あんなことやこんなこと、心にもないこと、あること、自分でもわけのわからんまま、もっともらしく、頗る適当に、大体夜中になってから、書いてきた。けれど、もうこれで最後。最後、と気づくと途端に、寂しいような気持ちが込み上がる。腸あたりから込み上がる。が、よくよく考えると寂しくとも何ともない。寧ろ嬉しい。込み上がる寂しさも霧消する。論文なんてチッとも面白くないから。あれ、何だか、もう、とっても晴れ晴れしてきたぞ。僕は自由になるんだ。羽ばたくんだ虫けらのように。あんたらは地面を這う虫けらだ。ざまぁみろ。


虫けらは尊い。

フランスのタバコはあんまりおいしくなかった。ジュ・テ・エイム。みたいな風味があると期待してたのに、蛤(はまぐり)。という感じだった。ジュヴゼェム。と思った。
フランスのタバコはリッキーからもらったのだ。ヨーロッパに留学していたリッキーがヨーロッパから飛行機に乗ってヨーロッパから帰ってきたのだ。これから、彼女にはヨーロッパ仕込みのハイセンスなヴォックス!を期待したいところだ。この前、リッキーとオマーが拳を突き合わせてヴォックス!とやっていたけれど、その意味を僕は知らない。きっと、すごくヨーロッパ的な何かだろう。





ところで、世の中には、素敵な女の子がたくさんいるなぁと思う。僕はその皆と愛を分かち合いたい。宇宙を愛でいっぱいにしたい。でも実際そんなにおおきくない、およそ三平方メートルくらいに散らかるから、そうやって砕け散った愛をかき集めてくれるのが、結局のところいちばん素敵な女の子なんだきっと。たとえその人がクソみたいな虫けらでも。

あぁ、また恥ずかし素敵ポエムを書いてしまった。

at 02:53, ジョバンニ, 日常の充満

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ミネラル

夏はよい。夏は宵。なんちて。という枕草子みたいなところから、前略。夏はやっぱり、暑いけど、いいものだね。
なんと言ったって、雲がいい。あの、入道雲を見ると、一気に、心から、夏だぜ、と思うものである。それで蝉がせわしなく鳴くといよいよ、夏だぜ、と十人に八人は思うものである。

僕は、ロック少年らしく、元気に、夏フェスに行ったりする。行ったりする、なんて変な日本語で書くまでもなく、僕は毎年のように、(毎年のように、なんて比喩するまでもなく実際毎年)夏フェスに行っている。夏のフェスティバルだよ。

今年も、サマーソニック大阪に行ってきた。僕の大好きなピクシーズやペイヴメントを観に。ピクシーズは阿呆みたいに楽しくて、阿呆みたいに「俺の心はどこにあるんだ?」なんて歌ったわけなんだけど、心の場所は君の手の中なわけなんだけど、何よりもやっぱり、ペイヴメントが、あのペイヴメントが、観れたことがたまらなく嬉しくて、ぼかぁ泣いたよ。日本最後のライブだもの。あんな良いバンドを、夏の空の下で、目の前で、観れたことが嬉しかった。最高だった。非常に疲れた。



そして脱力。非日常が終わると夏は脱力する。一定の迫真さを保ってきた僕の表情も、子供の日焼けも、夕立も、女の子の地味な嫌がらせのような日差しも、車も、ぜんぶ、夕焼けに溶けるように、脱力してゆく。(ポエティックだね)


考えてみれば、最後の夏休みだ。夏休みは、長いようでとても短いというのが世の常なのだから、僕は入道雲が散り散りになる前に、もう一度外に出てみてもいいかな、いいよね、くらいは思っているのだ。

at 03:25, ジョバンニ, 日常の充満

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The Phantom of Liberty

 雨が続く。続くので僕は部屋に閉じこもって泣いていた。
なんだかいちいち悲しい。全部が変わっていくようで悲しい。ブラックモンブランを食べても悲しい。そりゃァしょうがねえヨ、と言ったおじさんは、酒を飲んで踊っていた。僕は感動してしまった。おじさんは燦然と輝いて見えた。もはやおばさんに見えた。でもそれは間違いだった。おじさんは、おばさんではないのだ。物理的に。


おじさんは自由の怪人だった。


僕はもう大学の四年生となり、学部では最上級生だ。サークルでも、上が少なくなって、下が増えた。おじさんの、白髪が増えた。今年も新入生がたくさん入り、また大変にぎやかになったなァと僕は眺めていた。彼らは、きっとこれからの長い大学生活、うきうきわくわくどっきどきなんだろうなと思う。恋とかしちゃうんだろうなと思う。車の免許をとって、ドライブに誘っちゃえよと思う。きっと恋のスピード違反で捕まって危険運転致死傷罪が適用されるだろうと思う。それはとても素晴らしいことだろうと思う。ただ僕が悲しむのは、新入生の彼らもやがておじさんになるということである。今は若いロックの兄ちゃんたちも、いずれおじさんになる。ポール・マッカートニーだって、68歳だ。リンゴ・スターなんて、もう、70歳だ。おじいちゃんだ。ビートルズでさえおじいちゃんなんだから、いくら今ロックンロールだパンクだとブイブイ言わせてたって、ビートルズに比べたら平々凡々のうんこたれでしかない僕らなんて、おじいちゃんどころではない。それがとても悲しい。自由はどこへ行った。この国はどこへ行く。僕は何をなすべきで、僕は何者であるべきなのか。そればかりを考えて、僕は無性にやりきれなくなってしまう。たまに、僕は自分がもはや、おばあちゃんなのではないだろうかと考えることがある。でもそれはおそらく間違いだ。僕たちは、おばあちゃんにはなれないのだ。生物学的に。


そりゃァしょうがねえヨと言ったおじさん。彼は昔、自由の怪人と呼ばれていた。何ものにも縛られず、何ものにも執着せず、女と遊び、金を儲け、至る所に現れ、あらゆる善悪の業を為し、そのたびに国家を想った。自由の怪人はやがておじさんとなり、僕の前で酒を飲んでいる。僕はおじさんに訊いてみた。僕は何をすべきなのか、何者であるべきなのか。おじさんは言った。君は永遠に君でしかない。そりゃァしょうがねえヨ。
それから、僕とおじさんは二人で出鱈目に踊った。僕はなんにだってなれるのだ。観念的に。



at 01:04, ジョバンニ, 日常の充満

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死んでない

僕のことを、覚えているだろうか。諸君、僕は生きている。自分でも驚くが、実は生きている。


このブログの存在を、僕は忘れていた。三ヶ月もだ。あれからひとつの季節が過ぎ、君はまた大人になったことだろう。この三ヶ月の間に君はより賢くなり、より素敵になり、人間として成長したのではないだろうか。無論、それは勘違いだ。


君のことなんかより、僕のことを話そう。プライヴェートでは色々と、些末な事柄に日々を囚われがちであった。しかしそれが日常というやつで、この先も変わらずくだらない問題に関わって生きて行くことになるのだろう。しかしそんなことは糞面白くもないし、さして重要なことではない。重要なことは、何もない。美しく、豊満に、柔軟に、生きていさえすればそれでいいのだ。



ところで、ずっとずっと、言いたかったことがある。この三ヶ月、誰かが僕にそれを言わせないように、僕の頭からこのブログの存在を消したのではないかと邪推してしまうほどだ。しかし、今回は、憚りながら、言わせてもらおう。言わせてもらおうではないか。


「僕には、言いたいことなんて何ひとつない」


どうだ。これが言いたかった。ずっと。しかし言えなかった。何をかを現に言っているその状況において、言いたいことは何もないという複雑なパラドックスもさることながら、ブログなり何なり、もっともっと自己主張を!という礼賛体制のネット社会の世の中で、これを言うのは実に度胸がいる。
しかし僕は阿呆ではない。
やめてしまえばいいのだ。そういった場を設けてしまったがために、何をかを言わざるを得ない状況に自らを追い込んでいるのではないか。今まさにそうなのではないか。三ヶ月も忘れていたんだし、いっそやめてしまえばいいではないか。しかしながら、それが出来ればとっくにそうしている。そうしないのは、そう出来ないないからに他ならない。

僕は、コミュニケーションを欲している。体が、欲している。いやらしい意味ではない。ネットの本意は、コミュニケーションだと思っている。そうであるならば、ネット社会においては、誰しもが、何か言わなければならないのだ。それがコミュニケーションだ。レッツ、コミュニケーション、だ。






三ヶ月ぶりの日記なので、多少の支離滅裂は許して頂きたい。論理のずれに笑いは宿るというものだ。笑えないのなら、それはあなたのセンスの問題だろう。
長い間放置して、言いたいことも溜まっているだろうと自分でも思っていたが、そうはいかなかった。そういうものだろうか。そういうものなら仕方がない。つまるところ、何が言いたいのかというと、別に言うことねぇ、ということだ。

at 23:36, ジョバンニ, 日常の充満

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