愛は愛ゆえに愛だ。愛ゆえに愛でないのに愛のようなものがあったとして、それは決して愛ではない。完全な愛しかなく、ある愛の形は全ての愛の形だ。我々の愛は、そういう風にしかありえない。僕だって、そんなのひどい話だとは思う。
明るく前向きに考えれば、僕は世界中の人間と愛し合うことができる。可能性がある。僕はキリストではないけれど、確かにそれは可能なのだ。理論的にも、実際的にも。想像してみればいい。世界中の人間と愛し合うってのはどんな気持ちだろう。きっとうんざりすると思う。
僕は彼女を愛している。僕が彼女のことを愛することができるのなら、彼女は僕のことを愛することができるだろう。そして鏡になる。僕らは鏡になるのだ。
「僕は彼女を殺したいくらいに愛していた。だから僕は彼女を殺した。それが何か間違っているだろうか。間違っているのなら、遠慮せずに言ってほしい、今すぐにね。僕は確かに彼女を愛していた。そして、もちろん、今でも愛している」
「愛しているのに殺すって、どう考えてもおかしいわ。だって、彼女はそれを望んでいなかった。そしてあなたもそれをわかっていた」
「わかっていた。わかっていたよ。それでも僕は、愛しているからこそ、彼女を殺す他に仕方がなかったんじゃないか」
彼は彼女にキスをした。
「それはあなたのエゴよ」
彼女は言った。お酒を飲んで、二人とも気分が高揚していた。
彼は、テーブルの上で彼女の手を握る。
「そうかもしれない。しかしだからと言って、僕たちが愛し合っていなかったというわけでもないだろう」
「屁理屈はよしてよ。とにかく、たとえそれが愛だったとしても…認めるわけじゃないのよ、決して。でも、たとえ愛だったとしても、私はそんなのお断りよ」
彼はとても優しく彼女の髪を撫でる。それだけで彼女はうっとりする。彼は再び、今度は先ほどよりも情熱的に、彼女にキスをした。
「僕だってお断りだ。殺されるのなんて。僕は昔、前の妻に殺されそうになったことがあるんだ。つまらない夫婦喧嘩が原因でね。妻が包丁を隠し持っていたのを見つけた時は、本当にゾッとしたよ。もし気づかなかったら、僕は殺されていたかもしれない」
「殺されていればよかったのよ」
「どうして?」
「どうしてって、訊くのね」彼女はグラスの酒を一気に飲み干した。「私があなたを愛しているからよ」
例えばこんな話がある。
夕子の白い背中を見て、僕は泣きたい気持ちになった。夕子の背中はとても弱くて、今にもこの小さな部屋の真ん中に、消え入ってしまいそうだったからだ。僕は消えてほしくないと強く思った。どうか、消えないでくれ。夕子。
夕子はそんな僕の気持ちに気づいてか、ゆっくりと振り返って、優しく笑った。
「そんな顔、しないで」
僕は夕子に、何と言っていいのかわからなかった。どんな言葉を彼女にかけたら、彼女は消えないでいてくれるだろう。どんな風に生きたら、彼女と離れ離れにならないでいられるだろう。僕は黙って夕子を見ていた。
時々、夕子の輪郭がなくなることがある。夕子と、夕子の周りが溶け合っていきそうになることがある。それは美しい光景ではあるけれど、そのまま放っておくのはあまりにも危険だから、その度に僕は夕子のことを抱きしめた。すると今度は、僕と夕子が溶け合う。夕子の見る全てを僕が見る。夕子の感じる全てを僕が感じる。僕と夕子の、全部がつながっていくようになる。そしてその分だけ、周りから切り離されていく。この繰り返しによって、僕たちはもうほとんど後戻りできないところまできていた。これが最後のチャンスだ。
「そんな顔、しないで」
周りが夕子をとらえる。周りがどんどん夕子を蝕んでいく。夕子は溶け出す。裸になった夕子は綺麗で、この小さな部屋の中でとても繊細に見えた。僕は我慢できずに、また夕子を抱きしめようと思ったけれど、どうしても体が動かなかった。僕と夕子とは違う人間なのだということを、僕は知らなかった。そういう風にして夕子は消えた。
それに、こんな話もある。
私の話。私たちが愛し合えたらよかったのに、と私は思う。私たちが愛し合えたら、こんなことにはならなかったのに。
荷物をまとめながら、夫は私に悪態をついた。このアバズレ、信じた俺が馬鹿だった、とかそういうこと。たしかに浮気をしたのは私の方だし、それについて、何か言い訳をしようとも思っていない。だけど、夫にも問題がなかったわけじゃない。彼は私がまだ十代の少女だった頃から十年間も、私をずっと独り占めにしてきた。この十年間が私にとってどれほど重要なものだったのか、夫は知らないだろうし、知ろうともしないだろう。
最初のころ―つまり、私がまだ少女だった頃は、私は夫のことを心の底から愛していた。そして、こんな人と一緒になれるなんて私は幸せ者だな、と確かに思っていた。でもそれは所詮少女が信じた幻想でしかなくて、現実がこんな風だなんて、夢にも思っていなかったのだ。この十年で、私は自分をすっかり台無しにしてしまった。私はもう美しくなくなってしまったし、何かを強く信じるということもできなくなってしまった。もちろん全てが夫のせいだと言うつもりはないけれど、夫や、その他の色々が、私を駄目にしてしまったのだ。だから、こういう結果になるのも、仕方がないと言えば仕方がない。これが現実、これが私たちだ。
夫が、荷物と犬を連れて、今まさに玄関から出ていこうとする。私は、彼の荷物がとても少ないのに驚く。あの荷物と犬が、彼がこの十年間で手に入れた全てなのだろうか。私たちが愛し合えたら、こんなことにはならなかったのにな。
「私があなたを愛しているからよ」
彼は真っ直ぐに彼女の目を見る。彼女の瞳に、自分が写っているのがわかる。彼が動けば、彼女の瞳の中の自分も動いた。
「僕も愛しているよ」
「どうして?」
「わからない。でも、そんな気がする」
全部、ひどい話だとは思う。それに、うんざりする。しかし、こういう話があるというだけのことで、それで愛がどうこうというわけでもないのだ。